校長コラム

 「校長コラム」を掲載します。(毎月1回を予定)
 鉾田一高・附属中の様々な取り組みや校長の思いを綴ります。

校長コラム No.2 (2024/06/01)

【校長コラム 令和6年度 第2号】

鉾一生の努力と品格


    先月の県東地区中学校の陸上競技会では、2位の100メートル女子をはじめ6名の附属中の生徒が見事県大会への出場権を獲得しました。高校関東陸上県予選でも、9名の選手が関東大会出場決定、これで29年連続関東大会出場という歴史を刻みました。さらに、女子ソフトテニス部も関東大会出場、競技かるた部、美術部も全国総文祭への出場が決まりました。
 県の主催するグローバル人材育成プログラムにおいて4月の「ワールド・スカラーズ・カップ」東京大会を勝ち抜き、夏の世界大会(韓国)への出場権を得た高校生もいます。(決勝戦は、アメリカのイェール大学で行われます)
 華々しい入賞とまではいかなくとも、何事にも努力を惜しまない生徒が多いのは本校生の誇るべき特質です。
 ひとつのことを、真面目にこつこつと続け、磨き上げて行くには、様々な制約や我慢が必要です。短い休み時間内での移動、60分の集中授業、放課後まっしぐらに部活動に向かう姿、相手のことを考え、心配かけまいと快活に振る舞う本校生の姿は、さながら求道者のようです。
 もう少し、ゆるく考えたり行動したりでもいいのでは?という考えもありますが、この制約や苦しさは、成長する上で欠かせないものでもあります。
 現代は、「自由」や「権利」の名のもとに、あまりにも身勝手な振る舞いのニュースが絶えませんが、相手の身になって痛みを感じ、誠実さと努力を忘れない本校生の姿こそ、希望の光であると考えています。
 数学者の藤原正彦氏は、「自由という言葉は不要であり、人間には生まれ落ちたときからそもそも自由などはなく、法律以外にも道徳や倫理、組織の規則、協調など、あらゆるものに規制がある。権力を批判する自由さえあれば、自由は規制されていい」と『国家の品格』の中で語っています。
 あえて極端な言い方をしていますが、言論の自由の名の下、SNSでの誹謗中傷や相手を傷つける言動は、藤原氏に言わせれば「卑怯者」です。
 最近、『国家の品格』を読み直し、グローバル社会に対応するための新たな教育に取り組む中、変わらないもの、変わってはいけない人としてのあり方を、改めて考えています。昨今の日本人の品格の廃れた状況を憂えるばかりではなく、自身の襟を正し、世界に通用する「品格ある鉾一生」を育むことに傾注してまいりたいと思います。
 

6月1日 飯山美都子

校長コラム No.1 (2024/05/01)

【校長コラム 令和6年度 第1号】

文武不岐

 

 鉾田一高の校風として、よく文武不岐が語られます。この4月、高校・中学の新入生の皆さんには、文武不岐は二つのことをやるということではなく、学ぶこと(文)と実践すること(武)は一つのことである、というお話をしました。
 令和6年度のスタートにあたり、この文武不岐の意味を一緒に考え、より良き学生生活を送っていく一助になればと思います。

 本校の文武不岐の校風は、昭和の時代、野球部の甲子園出場をはじめ、多くの部活動が関東・全国大会の常連だったことや、一高としての高い進学実績から、自然と醸成されていったものと思われます。

 さて、そもそも文とは何かというと、学問や文芸(文学や芸術)のことを指します。武は体を使う武道から現在のスポーツをイメージするようになりました。
 文武二道、文武両道という「勉強でも運動でも優れた人」という賛辞とは異なるのが、この文武不岐です。
 古くは中国の思想家孔子が外交上、文武を兼ね備えることの重要性を定公に説いたことから広まった考え方です。
 水戸藩第9代藩主徳川斉昭の創設した弘道館では、欧米の脅威が迫る、先の見通せない時代の中、これからの日本を支える若者の人材育成のために教育思想としたのが文武不岐でした。文事だけでは軟弱となり、武事だけ秀でていても粗暴になるため「文武は、車の両輪、鳥の両翼のごとし。」(中江藤樹)という言葉の通り、文武は人として備えるべき一つのことで、片方だけでは成り立たないという教えのもと、若者たちは文武の修行に励みました。

 10代の君たちは、心と体(どちらも脳が司っています)がすごいスピードで成長しています。
 文と武は、今、君たちが鍛錬すべき一つのものです。学問や芸術により、広く深く世界を知り、部活動で心身を鍛え、実践力をつけることは、この先何十年生きる自分への投資(ギフト)となるでしょう。そのことを、常に頭のどこかで意識しながら毎日を過ごしていきましょう。
 人生は、自分の思い描いた通りになります。

飯山美都子